「日中友好三十而立」3)日本との比較(2002年度第24回日本・中国青年親善交流参加報告) 

 欧米のホームステイのイメージですと、ホストファーザーとホストマザーがいて、そこに日本人である私がホームステイさせてもらう、そのときには家族だけでどこかに遊びに行ったり、家族が私の話に耳を傾けてくれるんだろうと思います。しかし、私が実際に体験したのはそういう感じではありませんでした。むしろ私は現実的でおもしろい場所に行ったような気もしました。

 ホームステイプログラムは湖南省長沙市で行われました。あらかじめ決められた家のホストは実は何と私より2歳下の女の子でした。彼女に初めて会ったとき、彼女は中国人はめったに着ないと言われているチャイナ服を着ていました。
 連れて行かれたホストファミリーの家は湘江の近くにあるすさまじくきれいなマンションでした。内部はメゾネット方式でマンションなのに二階があります。その二階にはパティオのようなベランダのどでかいようなものがあり、二人乗りのブランコが置いてあります。建物の外には彼女のマンションよりもきれいなマンションが見つけられません。私はこんなリッチなところにきてしまったとぶったまげ、動揺しっぱなしでした。
2002中国団ホームステイ1
ホストファミリーが住んでいるマンションから隣のマンションを見ているところ。私がどうやらこの団のホームステイの中では一番リッチなところに来てしまったということは、後で団員に聞いてわかりました。

 この家の生活の豊かさはそこかしこに散見されます。
 台所は食器洗い機はビルトインされているし、レンジとかも当然のようにあり、家電は日本の一般家庭より多い気がしました。 リビングは非常にシンプルだけど照明とかに金がかかっているんだろうなというようなつくりでした。シャンデリアとかそういう悪趣味さはなく、まるで日本のドラマの中の一部屋を見ているようでした。ソファに座ると目の前には48型ソニーのテレビ、その横にはパイオニアのDVDプレーヤーがあり、どでかいスピーカーが左右につきホームシアター状態になってました。DVDプレーヤーの置いてあるチェストの引き出しをあけるとそこにはDVDがたくさん入っており、映画は好きなものを見放題という状態です。
 インターホンはテレビ電話になっているので、ピンポンピンポン鳴るたびにその画面を見て確認できます。ホストの友人が続々と来ます。
2002中国団ホームステイ2
それは、テレビドラマにでも出てきそうな家でした。別にみすぼらしいものを望んでいたわけでもない、けれども、どうしてこうなんだろうという疑問を強く持ったのです。政府派遣団だとこうなるのだろうというのが私なりの結論でした。

 ホームステイはホストファミリーと一緒に過ごすというよりも、もはやホストの友人が集って一緒に騒ぐ中に私が参加しているという状態でした。したがって、会話はこちらの語学力を考慮せずに進むため、恐ろしく早い中国語が炸裂し、話は何となく理解できるがしゃべろうにも返答は筆談か日本語でしか表現できないという状態がずっと続きました。
 そんなホストの友人たちに私は今までに見たこともない中国人像というものを見ました。今まで私が出会ってきた中国人というのは私を見て給料を聞き、私の持っている物に興味を持ち、私の生活に興味を持ちというように、未知なるものに好奇心を持ち、根掘り葉掘り人のプライバシーにまで踏み込んで質問をしてきたものでした。
 しかし、彼らは思い思いに楽しむためにホストの家にやってきているわけで、別に日本に興味があるというわけでも、日本からやってきた私に興味があるというわけでもないという感じでした。ホストが自由に過ごしてくれといっているように、その友人たちは自由にDVDを選び、勝手に人の部屋に入り込み、パソコンの電源を入れてネットを見たりしていました。

 その同年代のホストとその友人たちとは、音声が英語、字幕が中国語の映画を何本も見ました。そして時たま彼らからの突如としてやってくる中国語の質問に答えたりしてコミュニケーションをとりました。まるで、日本でプレステやるために友達の家に遊びに行って、みんな確かにプレステはやるけどお互いの会話はそんなにないというそれと同じ状況で、別に集ったからといってみんなで語らうなどというのはなく、中国で日本と同じような現象を見て、またびっくりしたものでした。
 こんなふうになっているということは、つまり彼らは彼らの生活だけで満たされているということなんだろうという感想を持ちました。私はうるさいけど余計なことを根ほり葉ほり聞いてきたり、将来の夢を高く持っている人たちと語り合ったりすることが好きだったので、その生活は彼らには幸いだとは思いましたが、個人的には少し寂しく思ったものでした。
[ 2002/10/03 17:31 ] 事業参加報告 | TB(0) | CM(0)

「日中友好三十而立」2)交流について(2002年度第24回日本・中国青年親善交流参加報告) 

 「交流」というのは一体何なのかということ自体が難しいと思うのですが、今回の親善派遣団として行った交流というのは、要人会見や施設訪問のようなまさに儀礼的な友好親善交流というものと、現地の青年連合会の幹部の人たちとの歓迎会に出席したり、青年連合会の人がアレンジしてくれたプログラムに参加するという個別のコミュニケーションが可能なものがありました。
2002中国団学生との交流
北京外国語大学日語系学生との交流。話し足りなくて、ホテルのロビーで話し込みました。(北京)
2002中国団太極拳での交流
合宿討論会会場にて。待機している時間なんですが、お互いに何とか仲よくしようと頑張っていたんですよね。一人の中国人が太極拳をやり始めて、みんなでチャレンジしているところ。(昆明)

 前者の交流はそれほど派遣される前の想像と変わらないものでしたが、後者の「交流」は私が想像していたものとかなりのギャップがありました。
 私は、交流の場面ではいつでも1人の日本人に対して1人以上の中国人が殺到していやが応でもコミュニケーションせざるを得ない状況に置かれるのだと思っていました。しかし、現地でのプログラムは中国人参加者は派遣団の人数よりも少なくて、中国人1人に対して複数の日本人が集まるという状況でした。そして、今回の中国派遣団のプログラムのためにアレンジされてやってきた青年の中には、日本語が堪能な人も結構いました。
 この派遣団の物すごく窮屈なスケジュールの中で限られた短時間の交流という条件がついていますから、日本語のわかる中国人と交流するには賢明な方法だったのかもしれませんが、何か不思議な感じがしました。
2002中国団スポーツ交流
スポーツ交流といっても和気あいあいでやるものだろうと若干甘く見ていた私たちですが、相手は現役バリバリの「選手」が出てきたため、みんな目の色を変えて一生懸命やりました。(長沙)
2002中国団民族学院
雲南民族学院での交流。日中双方で出し物を出し合った後、みんなで阿波踊りをしているところ。(昆明)

 確かに、中国にいながらにして日本語で交流ができたことは非常に幸いで、話も弾んで楽しかったことは楽しかったです。しかし、私にとっては、日本語ができないなりにもコミュニケーションに努力する人たちのことがむしろ印象に残りました。彼らはゆっくりと簡単な単語を選んで中国語を何度も反すうして話すことでわからせようとしたり、英語やら筆談やらをミックスするなどしてねばり強く自分の意思を伝えようと努力をしていました。
 今回のように日中青年交流という共通の目的で意欲的に集まった人たちでさえ、互いに言葉がよくわからないという壁を認識するとたじろいてしまうし、たじろかれがちになります。けれども、すべてのコミュニケーションが遮断されているわけではないわけですから、言葉の障害を感じながらも根気強くあきらめずに意思疎通を図ることは可能なんですね。
 私は、それを実践している人に敬意を表しながら、余りコミュニケーションのために努力をそれほどしなかったと自らを反省しているところです。
[ 2002/10/03 17:28 ] 事業参加報告 | TB(0) | CM(0)

「日中友好三十而立」1)各都市の違いを考える(2002年度第24回日本・中国青年親善交流参加報告) 

 内閣府の日中青年親善交流事業の中国派遣団に参加させていただき、中国の北京、長沙、昆明、広州、シンセンを19日間かけて訪問してきました。(http://www8.cao.go.jp/youth/koryu1.htm)
 この事業は昭和53年の日中平和友好条約を記念し始められたもので、今回で24回目を迎えました。折しも今年は日中国交正常化30周年という節目の年に当たり、中国派遣団では「日中友好三十而立」というテーマで各地で親善交流をしてきた次第です。

 今回私たち派遣団が行った都市というのは、北京、長沙、昆明、広州、シンセンということで、いずれも中国を代表する大都市や省都です。
 私の中国への第一の関心事は地域間における経済格差であるため、都市を巡るたびに各都市を比較したりそれぞれの違いをよく考えました。

 その地域の実態を見るには余りにも狭い範囲を見たにすぎず、車窓から見たイメージだけなのですが、省都のメインストリートはどこの都市もそれなりに立派でした。
 もちろん北京、広州、シンセンといった都市は長沙、昆明よりも車線も広く、周りの建物が高層化しているし、店舗の規模の大小、街自体の整然さといった違いは歴然としていました。もし、メインストリートの違いはその地域の最高水準の違いでもあると考えれば、各地域の経済格差は間違いなく存在していました。
 ただ、個人的にはそれは日本の東京と地方都市の差を見ているようなもので、それほど大都市と大都市に甚大な格差が出ているというふうには思いませんでした。格差について統計などを調べてみると、実際に大きく格差が広がっているのは大都市と大都市との格差というよりも、その都市内における人々の経済格差や都市と農村との経済格差の方なので、私がそういうふうに考えるのは統計からはそんなに外れてはいないことなのかもしれません。
2002中国団長安街の渋滞
北京のメインストリート、長安街の渋滞。片側6車線はあるというのに、路上は車でいっぱい。中国人は自転車で移動という私たちの固定概念はぬぐい去らないといけないほどの車社会でした。
2002中国団北京の街
北京市規画展覧館から見おろす景色。北京留学経験者が団員には数人いましたが、その発展振りにただただ驚いていました。

 それから、都市比較に関連して、各都市のスーパーマーケットの品ぞろえの違いやバスの車窓から見える車種で、日本の食品企業や自動車企業の進出についても考えました。
 まず、車については、沿海部では外資系企業の車を多く見ました。タクシーに多い車種なのかもしれませんがやっぱりフォルクスワーゲン系の車をよく見かけました。日本の車は余り見かけなかったです。
 内陸では国産ブランドの車が走っているのを多く見ました。また、沿海部よりも日本車を見る機会が多くありました。絶対数的には多分沿海部の方が多いのかもしれないけれども、外資系の中では健闘しているのではないかと思いました。
 次に、食品については、沿海部のスーパーでは日本の会社の食品をよく見かけたのですが、内陸部では日本の会社の食品を見かけなかったことに驚きました。ただし、変なひらがなが書かれている中国の食品はよく見ました。
 もし、ひらがなが書いてあることがある種の食料品への信用担保手段ということになっているのであれば、日本企業の食品が内陸のスーパーに並んでいてもいいと思いました。
2002中国団深センゲート
その当時、深センを通過するゲートがあり、ここで手続をしなければ通過ができませんでした。大陸部と経済特区との差を感じる一瞬でした。
[ 2002/10/03 17:20 ] 事業参加報告 | TB(0) | CM(0)